茅ヶ崎館と映画

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“庭の正面から、海の方へ散歩に向かう小津安二郎監督と野田高梧氏のお姿が、ついこの間のように浮かんできます。監督へのご挨拶や、ロケーション、打合せ、避暑などでお迎えした多くの方々が思い出されます。今あの頃を振り返り、全盛の日本映画製作の一隅を見て来たという思いを新たにしております。(茅ヶ崎館 館主 4代目 森 勝行)”

その壱

小津安二郎監督は、なぜこの茅ヶ崎を選んで数々の名作を生んだのか。お客様のご質問で一番多く訊かれます。昭和11年、松竹の撮影所が蒲田から大船に移転し、映画関係者や俳優さんが移り住むきっかけとなりました。明治20年代から湘南地区では別荘や宅地の分譲が盛んになり、多くの文化人が海辺の静かな暮らしから傑作を残されました。脚本家の池田忠雄・柳井隆雄、両氏と共に「父ありき」を書き上げる際、既にお二人が茅ヶ崎の住人であった為に、小津監督を誘って茅ヶ崎館での共同執筆が始まったと云われております。監督の好みであった茅ヶ崎の海と砂丘。今は失われつつある原風景を映画で観ることが出来ます。

その弐

映画の脚本を仕上げる過程で人それぞれ、様々な法則があります。小津監督の場合は、気の合う脚本家と長いときには半年も寝起きを共にされていました。 秋から春にかけて、茅ヶ崎館の庭に金雀枝(えにしだ)が咲き、やがて種の出来る頃まで。 日々の暮らしは起床して朝風呂から始まり、丁寧に時間をかけて髭を剃り、遅い朝食を熱燗二合を召し上がりながら。その後、近くの海岸へ散歩に。何気ない世間話から物語と主題が決まっていきます。逗留された中二階の角部屋「二番」には、七輪・火鉢・茶箪笥・食器が持ち込まれ自炊をされていました。 ちゃぶ台には煙草・洋酒の他に食材や調味料が用意され、陣中見舞いに来られた方々におもてなしをするのがお好きでした

その参

昭和16年の小津作品「戸田家の兄弟」に鵠沼の別荘シーンが描かれています。この頃から茅ヶ崎館での執筆も本格的に始まり、監督と湘南の縁も深まっていきます。明治時代から、別荘地・療養地として栄え、海辺の温暖な気候と松林に囲まれた環境は当時から憧れの地でありました。深川出身の小津監督も、晩年は鎌倉に居を構え、敬愛する文豪との交流を楽しまれています。母との二人暮らしは、まるで御自身の映画の世界を生きる様でした。「戸田家の兄弟」に出てくる二男(佐分利信)は監督自身をモデルにしたと言われています。小津監督は、家族の何気ないドラマをかけがえの無い時間として描いていますが、身近な対象を独自の観察眼によって追い続けながら、生涯独身を徹されました。

その四

小津安二郎監督の代表作で、映画の冒頭やエンディングの大事な場面に浜辺のシーンがあります。茅ヶ崎海岸への散歩を日課としていた監督ならではのカットです。昭和22年公開の『長屋紳士録』で観ることが出来る茅ヶ崎は、現代の景観まちづくりをするうえで、貴重な資料となっています。 なぜ、監督は海が好みだったのか・・・ やはりその時代の風景が素晴らしかったからでしょう。
また、今年没後100年を迎える国木田独歩は、明治41年に南湖院で療養をしていました。各地から御見舞いに訪れた文人は、当館に宿泊し、面会に行っていました。 独歩氏は、むくむくと白い、変化に富んだ夏雲の姿が非常に好きで 「茫々とした茅ヶ崎の濱、その砂山の上に寝転んで、永遠の浪の音を聞きながら、天地自然の姿に接し、心ゆくまで雲の姿に見入りたい」 と云って居られた。 (中村武羅夫エッセイより) など、段々と両氏に共通する自然な表現力に引き込まれていきます。

創業明治32年(1899年)、永年にわたり多くのお客様や携わっていただいた方々にただ感謝申し上げます。明治32年当時は、砂丘の上にぽつんと一軒の海浜旅館「茅ヶ崎館」があるだけで荒涼とした風景でした。農業と漁業が中心の村から別荘地として、また療養地としてだんだんと認知されていきました。市川団十郎や川上音二郎の別荘を筆頭に歌舞伎芸能役者、文人や脚本家が集まりはじめます大正時代からは映画関係者が住むようになり、その二世三世が現在の湘南ミュージックを創造しています。この茅ヶ崎特有の育みを受けた文化はこれからも少しずつ変化していくでしょう。茅ヶ崎館は湘南の古き良き時代を感じられる場所としてだけでなく、新たな創造の生まれる場所としてこれからも歩んで参りたいと思います。

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